
広島城
毛利輝元が太田川河口デルタに築いた近世初期の平城。1589年築城開始、1599年完工、関ヶ原後に福島正則、1619年から浅野氏12代の居城となった。1931年国宝指定の天守は1945年原爆投下で倒壊、1958年に外観が復元された。日本三大平城の一つ。
3行サマリ
- 1589年に毛利輝元が太田川河口デルタに築城を始めた近世初期の代表的平城・日本三大平城。
- 1619年から浅野氏12代約250年間の居城となり、1931年に天守が国宝指定された。
- 1945年原爆投下で倒壊、1958年に外観復元された天守は被爆復興の象徴となった。
歴史
太田川河口の三角州に築かれた広島城は、毛利輝元が中国地方9か国112万石の太守として近世大名にふさわしい新たな政務拠点を求めて1589年に築城を開始した近世初期の平城である。江戸時代には浅野氏12代約250年の居城となり、明治期以降は陸軍の中枢拠点として軍都広島の中心となったが、1945年8月6日の原爆投下により天守をはじめとする現存建造物群が倒壊した。1958年に天守の外観復元が行われ、現在は歴史博物館として一般公開されている。
毛利氏のそれまでの居城吉田郡山城は山陰山陽を結ぶ要衝の山城で、戦国期には堅固な防御性を発揮してきた。しかし孫の輝元の代、天正末期に天下が安定し権力誇示の城下町形成が城の主目的となる近世城郭の時代に入ると、山中の郡山城は政務・商業の中枢として手狭となった。1588年に上洛した輝元は大坂城・聚楽第を見て近世城郭の重要性を痛感し、海上交易路と平野形成可能な海沿いへの拠点移転を決意した。1589年4月に太田川下流の五箇村で鍬入れ式が行われ、穂井田元清と二宮就辰を普請奉行として築城が開始された。縄張は聚楽第に範を取り、構造は大坂城を参考にしたといわれる。1591年1月に輝元入城、1599年に全工事が完了した。
関ヶ原の戦いで西軍に属した毛利氏は減封され広島を去り、1600年には福島正則が城主となった。福島氏期に外郭整備と城下町造成が本格化し、内堀・中堀・外堀の三重堀を持つ約1キロメートル四方の壮大な城郭となった。1619年、福島正則が洪水修復を無届け改築と幕府にとがめられ改易されると、浅野長晟が入城し、以降明治維新までの約250年間にわたり浅野氏12代の居城となった。武家諸法度の制約により大規模改修はほぼ行われず、福島期に完成した城郭が幕末まで継承された。1864年の第一次長州征討では幕府軍本営となったが、戊辰戦争では広島藩が官軍に属したため戦渦を免れた。築城以来約280年間、広島城は実戦の舞台にならない平和な城郭であった。
明治維新後、本丸は広島県庁、次いで陸軍鎮台の駐屯地となり、1888年には第五師団司令部が置かれた。1894年勃発の日清戦争では本丸に大本営が設置され、明治天皇が広島に行幸、第7回帝国議会も広島で召集されるなど、約7か月間広島が臨時首都として機能した。1928年に天守の一般開放が始まり、1931年1月には旧国宝に指定された。太平洋戦争末期の1945年4月には第二総軍司令部、6月には中国軍管区司令部の本営が置かれていた。1945年8月6日の原爆投下により天守と現存建造物群は倒壊・焼失した。倒壊の経緯は長らく爆風で吹き飛んだとされていたが、2010年の新証拠により下層柱の破壊で構造体が崩壊した可能性が示されている。1958年、原爆復興の象徴として鉄筋コンクリート造で天守が外観復元され、内部は歴史博物館として整備された。1994年には二の丸の御門・櫓3棟が伝統工法による木造で復元された。
文化的意義
広島城は、近世初期の平城建築として大坂城・岡山城と並ぶ代表例であり、松本城・二条城とともに日本三大平城に数えられる。1931年に旧国宝に指定された天守の外壁仕上げの下見板張りや最上階の高欄を持つ外観仕様は、安土桃山期の城郭意匠を伝える稀有な実例として評価された。原爆投下によって失われた点は文化財史上の大きな喪失だが、1958年の外観復元と1994年の二の丸建造物群の伝統工法による木造復元は、被爆都市広島が文化財をいかに記憶し継承するかという戦後文化財保存史の重要な実践例として位置づけられる。城跡は国の史跡に指定されている。
建築的特徴
縄張りは輪郭式の平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、外郭が同心状に配置され、内堀・中堀・外堀の三重堀と西側の太田川本流(現在の本川)が天然の防御線を形成していた。中堀と外堀は明治末期から大正初期にかけて埋め立てられ、現在は本丸と二の丸を囲む内堀のみが残る。築城期の天守は望楼型五重五階の大天守と望楼型三重三階の小天守二基からなる連立式天守群で、櫓88基が立ち並ぶ大規模構成であった。原爆で全焼した後、1958年に大天守のみが外観復元され、鉄筋コンクリート造五階建て、石垣上12.4mの基礎を含めて約39mの高さで再現された。1994年の二の丸復元では、御門と平櫓・多聞櫓・太鼓櫓の3棟が原資料に基づき松材を主体とする伝統工法で再建され、近世城郭の木造復元の好例となっている。
訪問ガイド
JR広島駅から路面電車またはバスで約10分、最寄電停は紙屋町東・紙屋町西で徒歩約15分の距離にある。城跡は広島市中央公園内に位置し、本丸・二の丸エリアは無料で散策可能である。有料区画は天守閣内部の歴史博物館「広島城」で、最新の入場料・営業時間は公式サイトで確認すること。本丸内の被爆遺構として中国軍管区司令部跡の地下防空壕、被爆樹木のクロガネモチ・マルバヤナギ・ユーカリなどが現地解説と共に展示されている。広島平和記念公園・原爆ドームまでは徒歩約20分または路面電車で5分で接続するため、平和記念施設と城郭を一日で回る周遊が一般的である。撮影位置としては内堀東側からの斜め構図、二の丸復元御門越しの天守構図が定番となる。桜の名所でもあり、3月下旬から4月上旬の桜と天守の組み合わせが景観のピークとなる。
周辺スポット
徒歩約20分の広島平和記念公園と原爆ドームは1996年世界遺産に登録された原爆被災を伝える中核施設であり、広島平和記念資料館の常設展示と合わせて、戦争と平和を考える広島観光の中核となる。城公園に隣接する広島県立美術館は、近隣の縮景園(浅野家別邸の池泉回遊式庭園、国の名勝)と一体的な景観を形成する。城南東側のひろしま美術館は印象派絵画の優れたコレクションで知られる。少し離れて宮島(厳島神社、世界遺産)へは広島駅から在来線で約30分・連絡船で約10分の経路で日帰り訪問が容易である。
現代における価値
広島城の現天守閣は、被爆都市が原爆復興の節目に文化財を「外観復元」という形で再生した最初期の事例であり、史実への厳密性よりも市民の記憶継承を優先する戦後文化財復興の一典型である。1994年の二の丸復元では一転して伝統工法による木造復元が採用され、半世紀の間に「復元」の概念が市民共感型の象徴復興から学術的木造復元へと進化したことを建造物群そのものが体現している。被爆樹木と被爆遺構の現地保存と並ぶことで、城郭が戦争被災の記憶装置としての二次的役割を持ち、平和記念都市広島のアイデンティティ形成に欠かせない場所となっている。